093584 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

びゆてぃふる・らいふ

びゆてぃふる・らいふ

7.高校教師

7.高校教師 

幼稚園も含めると学校生活17年、お世話になった先生方は数あれど、どんなときでも「先生」という言葉を耳にするとき、真っ先に思い出すのが高校3年のときにお世話になった日本史担当のM先生。

大好きだったM先生。
一挙一動が、すべて大好きだった。

何がそんなによかったのかって?
それはですね、まず、授業がとにかく「熱かった」から!
毎回、教科書だけをなぞっていくのではなくて、そのときどきに関連した歴史的な出来事を熱弁ふるってしゃべりまくってくださった。
しゃべるのに熱中するあまり、授業終了のチャイムの音に気づかないこともしばしばで、誰かがたまりかねて
「先生、もうとっくにチャイム鳴ったんですけど」
と言うと、
「なんや、もう鳴ったんか!ナンギやなぁ~」
といかにも悔しそうだった。
私はチャイムなんてどうでもいいから、もっともっと聞いていたかった。

その内容も然りだけど、話しっぷりもほれぼれするくらい面白くて、日本史の1時間だけはどうしてこんなに短いのだろうといつも不思議に思っていた。
M先生にめぐり会うまでは、教室の一番前の真ん中の席つまり教卓のすぐそばは「ドツボ」と呼ばれていて誰もが敬遠している席だったし、当然私もそうだった。
ところが、日本史の時間だけはその席にいる子にいつも「席を代わって」、とたのむのが日課になった。みんなよろこんで代わってくれた。
M先生の熱弁を目の前で聞ける幸せ・・
こんな幸せをひとり占め?できるなんて・・
私はいつも目をキラキラさせて(いたと思う)、友達には「一時間中ずっと先生を見つめているね~」と呆れられた。
それほど好きではなかった歴史教科だったが、俄然私は勉強しはじめた。
それもこれもM先生にみとめてもらいたい一心で・・。

その甲斐があって日本史だけは、ほぼ毎回トップの成績をとることが出来、M先生もいつも一番前のど真ん中で熱心に授業をきいているごくフツーの女生徒の存在をみとめてくれるようになった。
よく廊下で呼び止められては、
「どうや、調子は。日本史もいいけど、他の教科も勉強せぇよ」
など、軽い会話をしてくださった。
他のみんなは名字を呼び捨てされるのに、私はいつもフルネームで呼んでもらっていた。内心は「名前だけでもいいのに」なんて思っていたが。

ところでM先生は当時まだ独身だった。
お顔立ちはそれほどハンサムってわけでもないけど、そうですね、今阪神タイガースで頑張っている金本選手に似た感じかな。
スタイルも背が高くスリムで、そして授業熱心で面白いと来れば、夢中になったのは当然私一人ではすまなかった。
ライバルが何名か出現したのである。
中でもとくにM先生に熱をあげていたのが同じクラスのNさんとEさん。
Nさんはサラサラロングヘアーが自慢のすらりとした美人で、今でいうなら仲間由紀恵さんふうかな。
Eさんは小柄でくるんとした可愛い目が印象的な、タレントで言えば誰だろう・・
そうそう、柏原芳恵さん、といったところかな。
とにかく、ルックスでは私には勝ち目がないのは一目瞭然!(勝ち目って何の???)
これではいかん、とばかりにますます私は日本史の勉強に熱中し続けた。
けれどNさんもEさんもとても気立てのいい人で、決して抜け駆けをすることもなく、M先生とおしゃべりにいこうよ、とか誕生日に一緒にプレゼントしようよ、とかいつも私まで誘ってくれた。
こう書いてみると、当時の私たちってなんだか高校生とは思えないくらい幼いよね?今だったら、これは小学生いや幼稚園児のすることかなぁ。
ともかく、おかげでとても楽しい受験生生活を過ごせた。
志望大学に合格してM先生にほめられたい一心で頑張れた。
そうそう、M先生はほめてくれるときって頭をなでなでしてくれたっけ。
・・これってやっぱり幼稚園児並み?

卒業してから一度だけ、NさんEさんと三人そろってM先生のご自宅まで遊びに行った。
いつも先生が話してくれていた、どこからかくすねてきた(!)というハニワの人形が玄関に堂々と飾られていた。それを見て、可笑しくて切なくてちょっと泣けてきた。
もう私たちは卒業して、先生の「うちの娘たち」(先生は女性徒のことをこう呼んでいた)ではなくなったんだなぁと実感したのはこのときだった。

時は流れて、今は年賀状でご挨拶するだけのおつきあいになってしまったが、今でもM先生の日本史の授業は私の心の宝物なのである。





© Rakuten Group, Inc.